サブカル女子/魔法使い/ほっといて
恋人によく、「サブカルクソ女子」と呼ばれる。
本人曰く、貶してはいない。いや、「クソ」って付けといてからに何が貶しとらんか、とは思わんではないものの、私もそんなに嫌がってはいない。
だって好きなんだもん、サブカル。サブカルの定義も、ちょっと調べてみたけど正直はっきりしなかった。でもまあ、完全に私の偏見ではあるが、本が好きで音楽が好きでちょっと変わったデザインの服や小物が好きでヴィレヴァンによく行ってラーメンズのコントが好きな私は、世間一般から見れば「サブカル女子」に括られるんだろう。「クソ」は余計だけど。
エンターテインメントによって生かされていると、つくづく思う。
通勤中にイヤホンから流れる音楽。ロックにポップにヒップホップにR&B。最近は家にいる間もずっと音楽を流しているようになった。リズムとビートとメロディで生活の隙間を満たす。曲を流していない間も、頭の中は何かしらの音で満ちている。おかげで私の目に映る世界には音が、歌が、溢れている。
日々の隙間を縫って本を読み進める。朝の電車で物語の世界に足を踏み入れる。仕事中は物語の泉から足を引き揚げて、しばし現実を揺蕩う。仕事が終わればまた、あの世界の扉に手を掛ける。扉の向こうではその世界が私を待ち構えていて、美しい描写で、手に汗を握る展開で、私をその奥へ奥へと誘ってくれる。
そうしている間は、日々の辛いことや嫌なことを忘れられる。音楽と本によって生かされている、そう思う。
音楽と本が「サブカル」にあたるかどうか、またクソかクソじゃないかは知らないけれど、そういった意味ではやはり私は「サブカルクソ女子」なんだろうな。
まあ、そういう恋人も普通に「サブカルクソ男子」だと私は思うので、結局似た者同士だよね。恋人は音楽とゲームが好きだ。好きな音楽ジャンルに被りはあるもののベースの方向は多分違うし、私はそんなにゲームはやらないけれど、お互いに好きなものやのめり込めるものがあるというのは大切なことだと思う。もし好きなものが同じだったとしたら、もっと楽しいよねって思う。
今私は、誰かが作った曲や物語から元気をもらって毎日を生きているわけだけれど、もし、もしもね、曲や物語を「作る側」に回ることができたらどんなに素敵だろうと思う。作曲も小説執筆も、手を出してはいるのだけれどまだ形にはできていない。いつか自分だけの作品を創作できたら、きっとまた一つ成長できるのだろう。
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私は根っこの性格がネガティブなので、他人からちょっと何かを指摘されただけで「そこまで?」ってくらい落ち込んでしまうことがよくある。恋人と過ごしているときも然り。とは言ってもお互い適当で寛容なので、恋人にガチで叱られることはほとんどなく、おふざけで怒られたり拗ねられたりする。そんなおふざけであっても馬鹿真面目な私は真に受けてしょんぼりしてしまう。傍から見たら死ぬほどめんどくさい奴である。
それでも恋人は、いつもの如くしょげている私を見て「雪は本当にいい子だね」と言い切った。彼曰く、一つ一つのことに対して落ち込んでしまうほど真剣に向き合えるのはある種の才能だと。そして私のそういう素直なところが好きなのだと、そう言った。
それを聞いて私ははっとした。私が嫌いな私の性格を、嫌で嫌で仕方なかったネガティブな性格を、彼はいとも簡単に私の長所に変えてしまった。えっ、私って魔法使いと付き合ってたの?っていうのは大げさかもしれないけれど、本当にすごい人だと思った。私みたいな下ばっかり見て生きてる人間にはそうそうできないことだ。
こんなすごい人と一緒にいられてよかったと思うとともに、私も見習わなければなあと思った。自分を好きになれない誰かが自分に自信を持てるように、優しい言葉を掛けられる人に、私もなりたい。そう思う。
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最近電車に乗っているときに、フレンズの『コン・パーチ!』を聴いていた。曲の終わりのあたりで目的の駅に着いたので、電車を降りた。曲の最後の「ほっとかれガール」という歌詞のところで、私が載ってきた電車をホームで待っていた人が手にしていた紙袋がちょうど目に入った。紙袋には大きな文字で「ねえぇほっとけないよ」と書いてあった。ほっとかれたいときにはほっといてもらえなくて、構ってほしいときにほっとかれるのが人生だ。
「ねえぇほっとけないよ」は、後で調べてみたら高級食パン専門店の店名だった。分厚く切ってこんがり焼いて、バターをたっぷり塗った食パンが食べたい。そんな夜。