ゆきノート

好きな本や音楽、同棲中の恋人とのことなどについて。

一生有効の愛情の保証書があればいいのに

恋人とスポッチャに行った。ローラースケートや卓球やバスケの3on3に興じるあれだ。

アーチェリーで右腕から首にかけての筋肉を伸ばし、バランススクーターというセグウェイの持ち手を取り払ったような乗り物に乗って下半身全体の筋肉を収縮させる。画面に向かってプラスチックのボールをひたすらぶつけるアーケードゲームで腕を振り回し、卓球で無駄に台の周りを走り回って全身を酷使する。その結果、翌日全身の筋肉痛に襲われることをこの時私たちは知らない。運動不足の20代半ばの社会人が急に激しい全身運動をするとどうなるか、身をもって分かったのだった。

同じ場所に、恋人と二人で以前にも行ったことがある。あれはたしか2年か3年前のことだった。昔行った時よりも、今回の方が楽しかったと思った。

私は運動が苦手だ。身体を動かすのが嫌いというわけではないが、圧倒的にテクニックがない。特にボールを投げたり打ったりするのに関してはからっきしで、学生時代の体育の授業には苦い思い出がたくさんある。

それに対して恋人の運動神経についてはまあ普通といったところなんだろう。学生時代は体育会系の部活に入っていたようだし、一般的な男性の平均的な運動能力は兼ね備えているのだと思う。

そうすると、一緒にローラースケートをしても卓球をしてもビリヤードをしても、何をやってもだいたい私の方がへたくそだ。私は運動音痴のくせに負けず嫌いなので、その時は私もまだ未熟だったから恋人に負けて不機嫌になっていたものだ。

それが今回は、意外と私も色々できた。ローラースケートは最初は生まれたての小鹿みたいになるし何回も転んで前方に手をつくものの、しばらく走れば普通にリンクの中を周回できるようになった。バランススクーターもどうせ乗りこなせず終わるのだろうと思っていたら、意外と乗りこなせてしまった。バスケのフリースローや射撃のゲームは私の方が上手だったりもしたし、卓球やビリヤードはどうやっても下手なので恋人には勝てないのだけれど、不機嫌になるのではなくへらへらして「上手いなあ」と感嘆することができるようになった。私も大人になったものだ。

あと、多分以前は私は「自分は運動が苦手だ」という考えにとらわれていたのだと思う。運動音痴だから、やったってどうせできないし。そういうマインドだったから、ローラースケートだってそんなに練習する気もなく手すりにつかまって一周しただけで終わってしまった。でも今回は、運動神経はあまり良くないながらも色々なスポーツを人並みに楽しむことができた。多分、自己肯定感が多少高まったおかげで「運動音痴とかどうでもいいから楽しみたい」という気持ちが高まったんだと思う。運動ができないのも何なら私の思い込みだったのかもしれない。体育の授業が嫌で学校に行くのが憂鬱だった学生時代の私に、「運動なんて今はできなくても将来恋人とスポッチャ行ったらめちゃめちゃ楽しいから気にしなくていいよ」って教えてあげたい。

その日はスポッチャで全身の筋肉を酷使した後、恋人の家の近所のラーメン屋でつけ麺をカウンターに並んで食べた。金曜の夜というのに混乱状態の世の中のせいかカウンターに座る人はまばらだった。こんなパニック状態の世の中に、私たちは呑気にラーメンを食べて、恋人は当たり前のようにご飯を注文して残ったつけ汁に卵と一緒に入れておじやにして食べているのがなんだかおかしかった。

もしこの騒動の中でこのまま世界が終わったら、と最近ふと考えることがある。もしこの世が終わっても、終焉のその瞬間にこの人が隣にいるのなら、きっと怖くない。そう思える人が今隣にいることが幸せで、麺をすすりながらしみじみとした気分になった。

ラーメンを食べ終わって家に帰り、順番でお風呂に入ろうとしたらお湯が出なかった。恋人がガスの料金を支払うのを忘れていた。一人暮らしというのは大変だ。仕方がないので、徒歩20分の距離まで足を伸ばして銭湯に行くことにした。いわゆる下町の銭湯と言ったような感じの、こぢんまりとしたお風呂屋さんだった。恋人宅から向かう道中、昨年の私の誕生日に行ったイタリアンのレストランに通りがかった。もうこのお店に来ることもないのかもしれないな、と思った。恋人は今は学生だが、今度の4月からは就職して別の場所に引っ越す。この街を恋人と歩くのも、もう片手で数えられるぐらいの日数しか残っていないだろう。銭湯は歩いていくにはちょっと遠かったが、最後にこの街にお別れを言う機会ができて良かったと思った。

銭湯は、本当にテレビで見るようなザ・町の銭湯という感じだった。番台さんが入口に座っていて、脱衣所は男性と女性で壁で仕切られていはいるものの天井は繋がっていて向こう側の声が聞こえた。お風呂から上がって脱衣所に戻ると、子ども連れの夫婦が仕切りの壁の上の空間を介して会話をしていた。

「もう上がった?」

「上がったよ」

「子どもが泣いてるから早く出て」

「なんで」

「分かんない」

知らない家族の何気ない日常の会話が何だか愛おしかった。

小銭を入れて使うタイプのドライヤーで髪を乾かす。財布の中の10円玉が一瞬でなくなり、髪が生乾きの状態で待合室に出ると、恋人がコーヒー牛乳を飲んでいた。隣に座ってオロナミンCを飲んだ。帰りはロングコートを着て首にはバスタオルを掛けるという何ともちぐはぐな格好で夜道を歩いた。どこをとっても非日常のその時間がたまらなく嬉しくて、恋人はガス料金の払い忘れによる面倒を悔いていたが、私は払い忘れてくれてよかったとちょっとだけ思っていた。それがなければ金曜夜に二人で銭湯に行く機会なんてなかったかもしれない。

すっかり温まった身体で家で映画を見ながら、何かの話の流れで私は「君に嫌われたくない」と言った。恋人は、「俺が君を嫌うことなんてありえないのに何を心配しているんだ」と言った。「俺が君を嫌うことはあり得ないし、君が俺を嫌うこともあり得ない。そうだろう?」と。

私は、恋人とこうして過ごせているのは奇跡的なことだと思っている。この広い世界の中で愛する人と出会えて、今まで付き合ってくることができた。それは紛れもない奇跡で、それが一生続いていく保証はないのだと。でも、恋人は私と一生涯連れ添うことを前提として人生を考えてくれていて、私もまったく同じように思っていて、それは私たちがずっと一緒にいることの「保証」と見做してもいいのかもしれないな、と思った。

ベッドに並んで横たわりながら映画を見ていたら、睡魔が私を襲ってきてところどころで眠りに落ちてしまうものだから、場面が途切れ途切れで画面の中で何が繰り広げられているのか分からなくなってきた。そのまま虚構と現実の境目も分からないまま、恋人の体温を体に感じて眠りについた。今このまま世界が終わったら、それはそれで幸せなのかもしれないな、と少しだけ思った。