ゆきノート

好きな本や音楽、同棲中の恋人とのことなどについて。

ネット上で発言をする人の責任について

ブログを投稿するとなると、一つの記事に対して何かしらのテーマがないといけないと何となく思っている節が最近、自分の中にある。でも、よくよく考えれば私はお金を稼いだりPV数を伸ばすために文章を書いているのではなくて、ただ書きたいから書いているのだと気が付いた。日常の中でふと思ったことや、いいなあと思った音楽やその他の表現、幸せだと感じた瞬間、そういったものを形にして残しておきたくて、文章を書いている。だから、何のテーマ性もないただの散文でもいいじゃないかと考えることにした。

そりゃまあ、どうせ書くなら誰かに見てもらえて、あわよくば「この人の文章、なんか好きだな」と思ってもらえたらそれほど嬉しいことはない。だから、そんなささやかな期待を込めて、文章をネットの海に放流している。最近はTwitterからは離れてしまったので、その代わりにブログに書きたいことを書きたいだけ書いて、あまりあれこれ考えすぎずに放っていけばいいやと思った。

ただ、インターネットという公共の場所に自分の書いたものを上げる以上は、自分の発言に責任を持つ必要があるとも考える。たまに「Twitterで何を呟こうが自由だ」という人をみるけれど、あれは間違っていると思う。誰かを傷つけることが容易に予想できる言葉を、ネットの海に放ってはいけない。誰が目にするか分からないソーシャルな空間だからこそ、誰に見られても問題ないと思えるものしか書いてはいけない。インターネットは何を言ってもいい場所じゃない。

人に見せられない尖った思考や醜い言葉は、ノートに書き留めて自分の心に仕舞っておけばいいのだ。大衆の面前に解き放つものではない。私だって正直言って、他人に知らせるべきではない汚い言葉が頭に浮かぶことはある。人間だから、内心で考えるのは仕方がないと思う。でも、それを自分の中にそっと仕舞ってこっそり濾過しておくのが大人の嗜みなんじゃないか。みんながネット上で何か発言をするときに、「この表現は誰かを傷つけはしないか」と一度立ち止まって考えるくらいで丁度良いと私は思う。そんな息苦しいのは嫌だと思う人もたくさんいるんだろうけれど、誰かの無知が誰かを傷つけるのを防ぐためにはそれぐらいのハードルは必要なんだと思う。傷つけられる側の痛みは、傷つける側には容易に知りえない。

きっと私がこれまでネット上でしてきた発言の中にも、知らず知らずのうちに誰かを傷つけるような内容のものがあったのではないかと思っている。私が傷つけた人たち全員に、直接コンタクトをとって謝ることができればと思うけれど、それはきっと不可能だ。だから、これ以上誰かを傷つけないように、世の中を知って、責任感を持ってものを書きたい。ここ数年は、そういうマインドでちょこちょこと文章を書いてきた。

 

yukiaoto.hatenadiary.jp

 

以前、こんな記事をブログにあげた。そういえば私は、この記事を書きたくてブログのアカウントを取得したのだったと思い出した。自分の発言で誰かを傷つけないために、発言をする前に一度立ち止まって考えてみませんか、そういう内容の記事だ。自分の書いたものがネット上でどういった影響を及ぼすか。声の小さいアカウントであっても、それを考えることは必要不可欠だと思う。

今日は本当は、週末の休みに家族と美味しいものを食べたこととか40kgある新品のマットレスを新居に運び込んだこととかを書こうと思って編集画面を開いたんだけれど、気付けば全然違う内容になっていた。こういう気まぐれが許されるところも、文章による表現の好きなところだ。私の大好きな文章を、書く人も見る人も純粋に楽しめるようなものであり続けてくれたらいいな、と思う。