ゆきノート

好きな本や音楽、同棲中の恋人とのことなどについて。

SNS時代を生きる私たちに必要なのは、想像力だ。

5月28日、川崎市登戸で小学生を含む複数人が刃物で刺され死傷するという事件が発生した。その後の情報では、犯人らしき男も死亡したということも分かっている。

この痛ましい事件を受けて、上に引用した記事の通り、「死にたいなら一人で死ぬべき」という声がSNSを中心に多く見られ、そのことの是非についての議論が各所でなされている。私もここ最近のテレビ番組やインターネット上でこういった議論をよく目にするが、個人として思うところがあったのでここで一つの文章としてまとめておきたいと思う。

まず、大前提として認識しておきたいのは、「どんな理由があろうと他人の生命を奪ってはいけない」ということ。自らの命を絶つというところまで追い詰められた人にはそれぞれに事情はあるのだろうが、だからと言って他者の人生を終わらせることは誰にも許されない。こんなことは当たり前のこととして社会で共有されていると私は思う。だから、「他人を巻き添えにして自分も死ぬ」ことと「一人で死ぬ」ことの比較というような話がこの問題の本質ではない。

この件に際して私たちが本当に考えなければならないのは、「みんな、自分の発言に対してもっと責任を持ちませんか?」ということだと私は思う。自分の発言が周りに対して与える影響について、あまりにも皆無責任なのではなかろうか。何か発言するときに、もっと想像力を働かせることが必要なのではないか。

「死にたいなら一人で死ぬべき」という発言をした人や、こういった発言に問題を感じない人は一度考えてみてほしいんだ。今、何らかの厳しい状況にあって「死にたい」と思っている人がいるとする。その人がこの言葉を見たらどう思うだろうか。生きるのが辛くて苦しくて、誰にも助けてもらえなくて、こんなに辛いならいっそ死んでしまったほうがましなのではないかと考えているところで、こんな言葉を目にしたら。私だったら「味方なんてやっぱりいないんだ、やっぱり死んだほうがましだ」と絶望すると思う。人それぞれだとは思うが、たった一人が何気なく発した一言が誰かを死に追いやるということは十分にあり得ることだと思う。ましてやSNS上で大勢の人が口をそろえて発言すれば、苦しい局面でギリギリの状態で戦っている人の精神に与えるダメージは計り知れないだろう。

おそらく、「死にたいなら…」の発言をしている人の多くは、「死にたい」と本気で思わずにはいられないような状況にいたことはないのではないかと思う。彼らには、こういう発言によって傷つく人の気持ちが分からないのだと思う。自分の言葉によって誰かを追い詰めることを想像できないから、その発言の罪が分からない。分からないからと言って、だから無意識に他者を傷つけるのも仕方がないと開き直ってはいけない。分からないからこそ、想像することが必要なのだ。

そもそも、現代のSNSが普及した社会に対して私たちはどう接するかということについて、いま一度考え直す必要があるように思う。

Twitterを中心としたSNSサービスの普及によって、一般市民が何か発言をする際のハードルが以前に比べて格段に下がった。もちろん、このことによって社会にもたらされた影響には、良い側面がたくさんある。弱い立場にあって抑圧されてきた人々が声を上げやすくなったり、SNS上で仲間を集めて連帯するということが可能になった。また、自分の意見を発信したり、他者の多様な意見に触れることで考えを深めることもできるようになった。

しかし、それに反してSNSには悪い側面もある。匿名で、また特にTwitterのようなツールだと、思いついたことを短文で思いのままに、自由に発信することができる。それによって、暴言や中傷発言のハードルも下がってしまった。匿名だから、みんながやってるからということを盾に、気に入らない意見や人物に対して、汚い言葉で罵ってもいい。そんな空気が、SNS上では何となく出来上がってしまっているのをたびたび見かける。そういった空気に飲まれて、たくさんの人が、自分の言葉が相手や他の誰かを傷つけるかもしれないことなど考えもせずに、平気で言葉の暴力を振るってしまう。

そういったことも踏まえて、「死にたいなら…」という言葉についての議論を目にするときに私が思うのは、次のようなことである。みんな、不特定多数の人に向けて発言をするときは一歩立ち止まって、誰かを傷つける言葉ではないか考えてほしい。想像力を働かせて、言葉を発してほしいんだ。

あなたはある物事に対面して、一つの考えを持った。直感と経験をっもって何かを感じた。だからきっと、あなたの中でその考えは「正しいもの」なのだろう。でも、他の人の立場に立った時も、その考えって本当に正しいと言えるのだろうか。ちょっとだけでいい、考えてみてほしいんだ。

たしかに、一般人の私たちの発言が持つ影響力なんて、芸能人やその他の著名人に比べたら大したことないのかもしれない。しかし、だれが目にするかわからないインターネット上で発言をする以上は、不用意に誰かを傷つけないよう配慮する責任は誰にでもあると思う。

SNSは、自らの考えを深め、世界中の様々な立場の人と交流できる有用なツールだ。だからこそ、SNSを通じて言葉の刃で他者を傷つけないために、想像することが必要だ。

「死にたいなら…」の発言にも限らず、不特定多数の人が目にする状況での発言には、誰かを傷つけるリスクが付きまとう。私だって可能な限り気を付けてはいるが、きっと私の想像の及ばないところで誰かに悲しい思いをさせてしまう発言をしてしまっていることはあるのではないかと思う。でも、だからと言って自分の発言で誰かを傷つけることを仕方ないとしてはいけない。想像して、他者に無意識に暴力を振るわないよう注意を払うことに意味がある。

またそういったリスクの半面、誰かの発言が他の誰かを元気づけたり、勇気を与えたりということだってたくさんある。むしろ、こういうところにSNSやインターネット上で誰もが発言できるような状況の存在意義があるのではないかと私は思う。

皆の発言で社会をより良いものにしていくために必要なのは、他者の気持ちを想像する力だ。みんな、想像力をつけていこう。私も責任をもって発言していくから、一緒に頑張っていこう。