ゆきノート

好きな本や音楽、同棲中の恋人とのことなどについて。

恋愛依存症

恋をすると女性は綺麗になるというのは本当だと思う。

なぜだか分からないが、幸せな恋をしている女の人はみんな表情豊かでキラキラしている。

きっと、なんとかというホルモンが分泌されてどうのこうのという話なんだろうと思う。恋愛ホルモンなるものがあるということも、どこかで聞いたことがある。恋をして、パートナーと触れ合うことによって放出される特別なホルモンがあるのかもしれない。

しかし、私には生物学的な話や医学的な話は十分に理解できない。青砥には生物が分からぬ。だからすごくぼんやりとした話をする。主観的な気持ちの話なら私にもできる。

多分、誰かに愛されているというその確固たる確信が、女性をより美しくするのだと思う。自分に純粋な愛を捧げてくれる相手がこの世に存在している。ただ一つのその事実が、自信と先の人生を歩むうえでの安心を与えるのだ。

人は一人では生きていけない。外で働くなどして社会生活を営むことや、衣食住の確保といった物質的な面ではもちろん、精神的にも、きっと一人で生きていける人間などいない。程度に差はあれど、誰かにそばにいてほしい、そんな時が誰にでもあるだろう。そうだとして、人生のすべての場面において誰かが隣にいてくれるという保証はない。人間関係は概して移り変わっていくものだ。その関係性がライトなものであればあるほど、その人との関係がこれから先も続いていくという可能性は希薄になっていく。

学生時代からの友人、飲み仲間、職場の同僚・上司、行きつけの店の主人、等々。人と人との関係性の形態は様々だ。その中で、恋人同士というのは異質な関係性であるように思う。イレギュラーな場合を別として、一人の人間につき恋人は一人である。それが友人や職場の同僚といった他の人間関係との大きな違いだろう。恋愛という関係性において、人は1対1で向かい合う。一人と一人だからこそ、恋人同士は互いを誰よりも見つめ合わなければならない。美しいところや優しいところだけでなく、醜いところや汚いところも。そういった、感情の相互交換、行ったり来たりを突き詰めていくことで、舞い上がったり傷ついたりしながらも愛情が深まっていく。

そういうところを見ると、恋人同士という関係性は、他のものに比べて永続性が期待できるように思う。刹那的な恋愛や前触れもなく終わる恋もあるが、多くの場合、恋愛はその先の未来が二人の間にあることを前提として行われると思う。人間は都合のいい生き物だから、楽しい時、嬉しい時はその時の楽しさ、嬉しさがこれからも続いていくと仮定して先の未来を描く。

だから、幸せな恋愛の真っただ中にいる人は、愛する人とともに歩む幸福な人生を思い描いて生きることができる。未来への希望は人を輝かせる。これから嬉しいこと、楽しいことがたくさん待っていると思うとわくわくして、きっと生きるのが楽しくなる。

大学生の頃、サークルの先輩に「最近なんかニコニコしてるね」と言われたことがある。その頃は今の恋人と付き合い始めたばかりの頃だった。私は全くそんな自覚はなかったのだが、恋人ができたことで無意識のうちに表情が明るくなっていたことに、恥ずかしさを覚えるとともに、自分が自分の恋愛に思いっきり影響を受けていることがなんだか面白くて、嬉しかった。

私は常々、自分は恋愛の中に身を置いていないと生きていられない人間だと思う。恋人同士という関係、1対1で、私だけに愛を囁いてくれる人がいないと、自分の存在に自信を持てないのだ。これを世の中では「恋愛依存」というのだと思う。あまり良いことではないのかもしれないが、私はこれで幸せなのであまり気にはしていない。

ただ、本来ならば自分に最大級の愛を注がなければならないのは、他ならぬ私自身なのだと思う。自分で自分を認め、愛すること。本当の意味でそれができている人には、恋愛は必要ないのかもしれない。赤の他人に自分を愛する役目を任せる必要はないのだ。

しかし、私はそれができない。少なくとも、今はまだ自分で自分を最大限に愛することができない。だから私は恋愛の中に身を置くのかもしれない。恋人から私への愛、それを実感できるから、いま私は楽しい人生を過ごせる。依存は依存なのかもしれない。しかし依存から生まれる幸福は、私に関して言えば確実に存在するし、私の人生にはその関係がどうしても必要なのだ。

今日も私は、恋人の腕と胸板の感触を思い出しながら眠りにつくのだろう。きっとその夜に見る夢は温かくて、優しい夢だ。柔らかな夢を見せてくれるこの恋から私は永遠に離れられないし、離すつもりもないのだ。