ゆきノート

好きな本や音楽、同棲中の恋人とのことなどについて。

内向的な自分を愛するということ

つくづく自分は人付き合いが苦手だなあと思う。

昨日は大学時代のサークルの仲間との飲み会だった。一部を除いては約一年ぶりに見る顔ばかりで懐かしい時間だった。もちろん楽しかったのだが、やはりどうしても、大人数での飲みや食事の場というのは疲れてしまうものだと感じる。飲み会の後、家に帰ると私はなぜだかぐったりしていることが多い。

周りによくしゃべる人がいた場合はいい。ただ、そういった人が近くにいない場合、沈黙の時間が生まれる。大人数のサークルなどだと特に、同じコミュニティとはいえそこまで仲良くない人もそこそこいるわけで、そういう場合は話題を見つけるのに大変な苦労を要する。サークルはもうとっくに引退しているし、そうなるともう仕事または学生生活しか私たちが共通認識として持っているものはないわけで、そこからどれだけその話題で時間をつなげるか、それに全力を注ぎこむことになる。自分がどういう表情をしているか、ぎこちない表情になっていないかも気になる。余裕のない私にとっては「会話を続けるための会話」でしかないから、相手もあまり楽しくないのだろうと思って一人で勝手に辛い思いを味わう。うっかり一番端の席に座ってしまい、近くの人がトイレに立ってそのまま戻って来なかったり別の席に華麗に映っていってしまったときの心細さと虚しさと言ったらない。

多分、コミュニケーションに不安を抱えていない人がこれを読んだら、イラっとされてしまうのだと思う。相手が楽しくないだろうと決めつけて会話を続けることは失礼だし、いちいち自分の見え方や、変な奴だと思われていないかを気にしながら過ごしているのは自意識過剰だからだと彼らはきっと思うだろう。でも、私からしたらこの性格はもう「そういうもの」なのだ。今まで生きてきた中で出会った人や出来事によってこの性格や気質は構成されているし、努力で性格は変えられるとはいえ本質の部分はきっと抜けない。

家に帰ってシャワーを浴びるといつも、その日あったことを色々と思いだす。良いことも悪いことも全部。飲み会や食事会の日のシャワータイムは決まってその日の脳内反省会が始まる。あの時こういう発言をしたらなぜだか注目されて恥ずかしかったとか、あの時こういう返しをしたらもう少し会話が盛り上がったのではないかとか、あの時ああいったせいであの人は不快な思いをしたんでははないかとか、言ってしまえば考えたところでどうしようもないことで頭の中が満たされる。

そういう時は、さっきより自分のことが嫌いになった気がして悲しくなる。一回の飲み会ごときで自己肯定感が下がってしまう自分が嫌になる。そんな自己嫌悪のループから逃れるようにして、創作物の世界に入り込む。本を読んだり、ドラマや映画を見たり、音楽を聴く。他人が作ったもので自分を満たせば、自分の考えたあれやこれやで澱んでいた心がそれによって塗り替えられたように思える。本や映画や音楽は、私にとってシェルターだなと思う。

多分、こんなことで帰宅後の数時間を悲しみに暮れながら過ごす必要なんてないのだ。客観的に見ればここまで気にするほど私はコミュニケーションをとれていないわけではないのかもしれないし、そもそも他人は私のコミュニケーション能力に関して大して注意を払ってはいない。それでも、やはり考えずにはいられないのが厄介なのだ。

それはそれとして、これからも楽しく生きていくためには良くも悪くも自らを正当化する必要がある、というか、そうしないとやっていられないなと思う。この世の中では一般的にはコミュニケーション能力が高い人が「良い」とされるし、他人と円滑な関係を築いていくためにはそれは不可欠だ。ただ、コミュニケーションが苦手だということが一概に悪いのかと言われればそういうわけではないと思うし、苦手でもある程度妥協して上手くやっていけば十分幸せな人生を過ごすことは可能だというのは分かり切っていることなのだ。

それに、会話が苦手だからこその強みもきっとある。話すことで自分の思うことをうまく伝えられないから、文章や音楽や美術にそれを込める。そうすることでより素晴らしい作品が生れるということもあるだろう。地球上の人間が全員社交的でカラッとした性格だったら、きっとこの世に生まれなかった文学作品や芸術作品がたくさんあるはずだ。コミュニケーションが上手いとか下手とか、そういうのにとらわれずに自分の良さを自分で理解して、納得のいく人生を送ることができれば、それが幸せに違いない。

そうやって自分に言い聞かせて、会話が苦手で内向的で臆病な自分を愛していけたらいいな、と思う。今日も私は自分を抱きしめるために、創作物の世界に逃げ込み、又は脳内に浮かぶ考えを文字に変えて文章を綴る。