ゆきノート

好きな本や音楽、同棲中の恋人とのことなどについて。

負の記憶が存続しやすいのは何故なのだろう。

他人を怒らせた記憶というのがなかなか消えない。

人付き合いをする中で、相手を怒らせるという場面はたまにある。私は自分の意見をはっきり言えるタイプではないので意図的に相手に強い言葉をぶつけることはないが、私が何気なく口にした言葉が相手を傷つけたり、相手がたまたま機嫌が悪いなどしたときに私の言動が引き金になって相手の怒りを引き出してしまう場面というのは少なくない。

こういう時の記憶が、自分の中でいつまでも沈殿しているのを感じる。記憶というのはどれもだんだんと薄れていくもので、その中でも印象の強かったものは長い間残っていく。だとすれば、楽しかったことや嬉しかったことが蓄積されていくのはもちろんのこととしても、その反面、悲しかったことや怖かったことも大きな印象を与えたものであればあるほど、心の奥底に仕舞われていくものなんだろう。

昨日、他人を怒らせた。相手を怒らせたとき、私は硬直して動けなくなる。自分のしたことを謝っても、場を和ませるための言葉を掛けようとしても、何をしてもその緊張した状況を悪化させる気がして、ただただ黙りこくって自分の座っている斜め下の一点を見つめることしかできなくなる。どこを見ているのか分からない目をして地蔵の様に佇む私の姿は、ひょっとしたら相手の怒りを余計に増幅させるのかもしれない。しかし相手の心も相手が望むことも推測できない私には、ただ感情と存在を消して嵐が過ぎ去るのを待つことしかできない。

何も言葉を発せず固まっているこの間、頭の中ではたくさんの考えがぐるぐると回っている。こう言えば相手の許しを得られるのではないかとか、そうはいっても私は悪いことは何もしてないじゃないかとか、このまま関係を修復できなかったらどうしようとか、そんなことを考えるせいで、私の思考はどんどん負のスパイラルに陥っていく。

これまでの経験として、こういった緊迫の状況に陥っても、時間が経てば解決されて表面上は何事もなかったように元の状態に戻る。でも、相手に抱いた恐怖の感情は長い間消えない。「いじめた方は忘れても、いじめられた方は覚えている」というのはよく言われることだが、これと同じだ。怒りのようなマイナスの感情をというのは、それを表出した方は時間が経ったら忘れるけど、それを向けられた方はなかなか忘れられない。

このことの怖いのは、自分はすっかり忘れていても、実は相手の中に私への恐れが眠っているかもしれないということだ。私が何かの拍子に表出した苛立ちや不満を、私はすっかり忘れていても、相手はいつまでも覚えているということが大いにあり得る。というか多分実際そうなんだと思う。相手のそういう記憶が無意識の中に眠るものだったり、相手がその記憶を私に打ち明けない限り、私はそのことを知ることができないのだ。

何にせよ、誰かに対する私の記憶が、怒りや恐れの感情で満たされてしまうのは悲しい。楽しい思い出だけ共有していたい。そう思うけれど、そんなことはきっと不可能なのだろう。せめてなるべく相手の中に自分へのマイナスの記憶を蓄積させないように、怒りや苛立ちの感情を相手に見せずに生きていこうとも思ったが、自分の感情を押し殺したまま作る関係性が上手く存続できるかというと、それはそれで疑問である。

人間関係というものは本当に難しい。しかし私は一人では生きていけないから、どんな問題よりも難しいこの事柄と向き合い続けていこう。そう思った。